2019年11月号 Vol.34 雅子皇后陛下の輝き

箱根ラリック美術館 「箱根ラリック美術館」は、2005年、オーナーが個人で蒐集したラリック作 品のコレクションを元にできた美術館です。そのコレクションは1500点、 この中から、厳選された作品が、常時230点ほど展示されています。 初期のジュエリーや装飾品、中期のガラス作品、後期の建築装飾と、ルネ・ラ リックの創作活動を見ることができます。 アール・ヌーヴォー、アール・デコの 両時代に渡って活躍した作家 ルネ・ラリック(René Lalique、)は、 19世紀末~20世紀初頭に活躍したフ ランスのジュエリーとガラスの工芸 作家です。アール・ヌーヴォー、アー ル・デコの両時代に渡って活躍した 作家。前半生はアール・ヌーヴォー 様式の金細工師・宝飾デザイナーと して活躍していました。1860年、フ ランス、シャンパーニュ地方マルヌ 県アイ村に生まれ、パリで育ちました。 1876年、宝飾工芸家で金細工師のル イ・オーコックに師事し、金細工・装 飾等の技術を習い、1877年からは、 夜はパリの装飾美術学校で学びます。 その後1878年から1880年までイギリ スに滞在し、シデナム・カレッジで 学びました。 パリに帰ったラリックは、1882年 頃からフリーランスの金細工師・宝 飾デザイナーとして活動し始め、 1905年にはパリのヴァンドーム広場 にアトリエを構えるまでになります。 30代前半までのラリックは、おもに 女性向けの高級ジュエリーをデザイ ンし、カルティエなどの著名な宝飾 店にも作品を提供し、当時の高名な 女優サラ・ベルナールも顧客でした。 舞台で使う装飾からはじまり、プラ イベートの装身具も制作しています。 彼女との仕事をきっかけに、デザイ ンで勝負するジュエリー制作をする ようになります。 ルネ・ラリックは20歳ほどの若さ でカルティエやブシュロンなどの一 流宝石店から依頼を受けるほどの成 功をおさめていました。1900年にパ リで行われた万国博覧会で大ブレイ クした彼の作品は、「宝飾品=宝石 の価格」という時代のなかで、デザ インで勝負し、ガラスや七宝も使い 新しいジュエリーの価値を生み出し たのです。1897年、レジオンドヌー ル勲章を受章しています。 工業化と芸術性の追求 時はまさにアール・ヌーヴォー様 式の最盛期で、彼が創り出した宝飾 品の数々は、それまでの宝飾界の常 識を打ち破る斬新なものでした。ヨ ーロッパ各地で開催された国際博覧 会で紹介される日本の伝統工芸品の 繊細さ、その構図の目新しさなどに ラリックも影響を受けたのでしょう。 鼈甲に似た水牛の角を使用して日本 の櫛のような形の髪飾りをいくつも 制作しました。また、自由に好みの 色や形を作ることができるエナメル (七宝)細工の技術を駆使して昆虫や 鳥、あるいは植物や神話上の人物等、 アール・ヌーヴォーのモチーフでネ ックレスやブローチなどを創り出し ました。 アール・ヌーヴォーの勝利 ラリックの名声は「アールヌーヴ ォーの勝利」とまで謳われました。 1900年のパリ万国博覧会では宝飾作 品が大きな注目を集め名声を得まし た。1900年のパリ国際博覧会でまさ に頂点を極め、そこで発表された多 くの作品は世界中の美術館や収集家 が競って買い求められたといいます。 ラリックは1895年頃から宝飾品の素 材の一部にガラスを取り入れていま したが、本格的にガラス工芸の道へ と進んだのは、ファッションの流行 がボリュームのあるふくよかな服装 からシンプルなラインを強調するス タイルに移ったため、派手な装飾感 のある宝飾品が売れなくなったから ともいわれています。そして、ルネ・ ラリックの創り上げた独特のスタイ ルも、やがては多くの模倣品を生み 出すようになります。ラリックはそ れらにたいへん憤慨していたともい われますが、その一方で、ごく一部 の特権階級のための宝飾品の制作そ のものに、発展性の限界を感じてい たとも伝えられます。実際に1905年 頃を境にしてラリックのジュエリー は人気凋落が著しく、評論家たちは 手のひらを返したようにラリック作 品に「陳腐」「悪趣味」といった悪評 を浴びせかけました。 ガラス工芸との出会い そのような中で、1908年、香水商 フランソワ・コティは、女性の憧れ の的であった宝飾家のルネ・ラリッ クに香水瓶とラベルのデザインを依 頼します。ラリックによるアール・ デコ様式のガラス工芸は、まず香水 瓶(flacon)によって始まったのです。 ルネ・ラリックの世界に 魅せられて René Lalique P●INT DE VUE JAPON 65 P●INT DE VUE JAPON 64

RkJQdWJsaXNoZXIy NDY3NTA=